Unit of Human Biology and Genetics, Department of Biological Sciences, School of Science, University of Tokyo

東京大学大学院 理学系研究科 生物科学専攻 / 広域科学大講座:人類進化システム学 /
人類科学大講座:人類生物学・遺伝学研究室

東京大学大学院
            理学系研究科 生物科学専攻
            広域科学大講座:人類進化システム学
            人類科学大講座:人類生物学・遺伝学研究室

研究室の歴史:先史時代 - 2000年度

先史時代

西暦1994年がラボ紀元ですから、それ以前のことです。本研究室の前身は、石本剛一先生の時代に遡ります。石本先生は、大学院時代医科研に行っておられました。そして、人類学教室に「ナマモノ」を扱う研究を導入されました。小職が人類の学生になったときには、先生は既に三重で教鞭を振るっておられ、博士課程のときサンプルをいただきに三重詣でをしたことが記憶に残っています。ありがとうございました。こんな言い方をすると失礼かもしれませんが、小職のやくざな(いい意味のやくざです)ところは石本先生に似ているような気がしています(あこがれているだけかもしれません)。石本先生の後を、尾本先生が襲い、永らく多型研究がなされておりました。小職はこのころ進学したのですが、高校生の頃、論理的で(単に計算で解ける)面白かったはずの遺伝学が大学ではなんてつまらないことをやっているのだろうと思ってしまいました。それは自分の勉強が足りなかったこともあるのですが、そのころ勉強しないでよかったと思っています。まさか、自分が多型研究をすることになるとは想像もせず、他の分野のことばかりしていました。

もっとも、人類遺伝学研究室といわれた先史時代からは、多彩な人材が輩出されております。

石本 剛一 (創始者)
尾本 恵市 (後継者)
後藤 延一 (昭和大学)
上村 敬一 (信州大学)
豊増 翼 (逝去)
原田 勝二 (SRL)
平井 百樹 (東京女子医大)
石崎 寛治 (愛知癌センター)
青木 健一 (東大・人類)
植田 信太郎 (東大・人類)
徳永 勝士 (東大・医)
斎藤 成也 (国立遺伝研)
石田 貴文 (東大・人類)
西垣 敏紀 (大阪警察病院)
針原 伸二 (東大・人類)
石井 千賀良 (高校生物の先生)
渡辺 嘉久 (日赤)
曽 志民 (不明)
河村 正二 (東大・柏)
川崎 和彦 (ペンシルバニア大)
今西 規 (産総研)
金 鋒 (中国科学院)
吉村 美紀 (不明)
海老原 達彦 (産総研)

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1994年度

11月に研究室の装いが新たになり、より広く生物学的分野をカバーすることになりました。

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1995年度

大学院研究生として、田中伊知郎が配属されることになりました。夏に、ウイルスを伴侶(?)にと希望する学生(高雄さとみ)が来て、研究室に出没するようになりました。秋には、大学院進学内定者が2名(木村正子・清水裕子)決まり、研究室に出入りするようになりました。学振の交流事業でタイ国立がん研究所のダナイが2ヶ月滞在しました。また、マレーシアのザムが1週間滞在しました。調査の方は、インドではウイルス、インドネシアではミトコンドリア脳筋症とウイルスの調査をしました。冬には、黄金の三角地帯での少数民族の調査に4年生の2人も参加しました。

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1996年度

4月、大学院に進学した2人は、それぞれ、マラリアと遺伝(木村)、サル細胞の加齢(清水)をテーマに研究を開始しました。インドネシアのソマントリ大先生が来ました。学振の国際共同研究という研究費を頂いていましたので京大霊長研の樹理さんとタイでサルの血を集めました。後に鬼籍に入ったチャランに合掌。調査の方は、タイではメーホンソンのヒルトライブ、インドネシアはスラウェシ島でした(お腹をこわし熱を出したのですが、初めて生理痛の薬を貰って飲み、よく効きました。あっこちゃんありがとう)。大学院に進学内定した西岡が加わり、細胞バンクの拡充には先輩を差し置いて活躍し始めました。

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1997年度

4月、修士に新たに3名(高雄さとみ・田崎調・西岡朋生)が加わりました。テーマは、それぞれEBウイルス関連疾患・LHON・EBV-LCLについてです。調査は、インドのHTLV、イリアンジャヤ、タイのアカ族。この年から、ロングランになったタイのPSUとのPTPDの共同研究が開始され、木村正子がなぜかPSUへ行きました。

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1998年度

4月、修士に新たに1名(青裕子)が加わりました。結局ダフィー血液型をやることになってしまいました。日本学術振興会拠点大学交流事業マレーシアに組み込まれアシュレーが来てしまいました。院浪の木村亮介がラボに出入りするようになりました。10月にネパールから研究生(ナンダ)も来てしまいました。共同研究でスパポンが来ました。インドネシア・バンジャルヌグラの調査では、マラリアとりがマラリアになったりしました。大学院に進学内定した森あつ美が加わり、スリンのアレンジによるムラブリの調査にも参加しました。インドのカウンターパートのバブ、交通事故で鬼籍に入り、これにてインドの調査打ち止めになりました、合掌。

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1999年度

4月、修士に新たに3名(木村亮介・中山一大・森)が加わりました。ケモカイン・皮膚色変異・PTPDがそれぞれのテーマです。木村正子が学振の特別研究員に採用されました(豆腐料理ご馳走様でした)。小職の実際の恩師であり、還暦を迎えられた医科歯科の山本先生に、こちらのセミナーの覆面審査官として御来駕を賜りました。日本学術振興会論博事業でダナイが来始めました。日本学術振興会拠点大学交流事業タイが始まり、オーストラリアへ留学してしまったスパポンの代わりにチンタナが来ました。マレーシアからはザムが来ました。10月、ナンダが博士課程に入学しました。そういえば、スマリーも来ましたね。調査は、インドネシア2回・マレーシア・タイはもっぱらPSUでした。3月、2名が修士を終え、フジサワ(田崎)とカネボウ(青)に就職しました。

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2000年度

研究室のリストラを考えるようになりました。で、新入生はいません。日本組織培養学会で博士3年の清水裕子が奨励賞をいただきました(たぶん本人よりも嬉しかったです)。日本学術振興会拠点大学交流事業では、おめでたのチンタナの代わりにモイが来ました。そろそろインドネシアとか打ち止めかというので、スンバ島へ行きました。久しぶりにパレアンのサカイを訪れました(9年ぶりです)。ちょっと変わった人類の先輩(永田脩一トロント大)とお友達になってしまいました。これまでのタイの調査のきっかけを作って下さったプティポン先生逝去、合掌。3名が修士を終え、内1名(森)は資生堂に就職しました。木村正子は単位取得退学し学士入学で医師(の資格?)をめざします。

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